市バスの発展と地下鉄の開業(1935~)

市内民営交通機関の買収統合と戦前の発展(1935 -昭和10年-)

市内民営交通機関の買収統合

大正末期から昭和初期にかけて、市内には多くのバス会社が設立され、乗客の争奪戦を繰り広げていたことから、市電、市バスとも経営不振に陥り、これにより、人口の増加、市域の拡大に対応した周辺地域への路線延長もままならない状態でした。そのため、市営交通事業の経営安定化、二重投資、過当競争の解消を目的として、市内交通機関を買収統合することにしました。昭和10年12月の民営バス会社の中で最大の名古屋乗合自動車株式会社の買収統合を皮切りに、15年2月の第4次まで行いました。
これにより、電気局の事業成績は向上しました。特にバスは、運行系統の整理統合により、無駄のない経済的な運行となり、財政面や市民サービス面に大きな効果がありました。

買収電車路線図

買収電車路線図

買収バス路線図

買収バス路線図

名古屋汎太平洋平和博覧会への乗客輸送

名古屋汎太平洋平和博覧会は、南区熱田前新田(現在の港区港明付近) で、昭和12年3月から5月まで開催されました。会場への乗客輸送は市営交通が一手に引き受けることとなり、市電路線の延長など施設の整備に力をそそぎました。また、会場へアクセスしやすいよう運行系統を再編成し、480万人の入場者を円滑に輸送しました。

博覧会会場の前を通る市電

博覧会会場の前を通る市電

市電のスピードアップと路線の拡充

昭和7年ごろから市電のスピードアップを望む声がしだいに高まり、9年9月から、平均速度をそれまでの16km/hから20km/hに、最高速度24km/hから30km/hに引き上げました。
また、昭和12年は、2月の国鉄名古屋駅の移転改築、3月の東山動植物園開園、3月から5月の汎太平洋博覧会などがあり、次々と新しい路線が開通しました。そのほか、博覧会に合わせて、昭和11年に1400型車両(定員70名)を製作しました。この車両は、技術関係者の衆知を集めたこれまでにない優秀なもので、名古屋市電の標準型として昭和49年3月の路面電車全廃の日まで活躍しました。
こうして、12年度末には、営業キロは83.8kmと市営創業当時の約2倍、車両数は348両に達しました。

昭和12年の路線図

昭和12年の路線図

戦時輸送(1937年 -昭和12年-)

電車の輸送力増強

昭和12年7月に日華事変が勃発し、軍需工業地帯となっていた名古屋市は人口が著しく増加しました。一方で、翌13年5月のガソリン消費規制により、当時ガソリンを燃料としていた市バスの運行回数が制限されたため、市電の乗客が増加し混雑が激しくなりました。その後、軍需産業の拡大によって電力不足となり、電力制限が実施されたため、15年2月からは節電のために朝タラッシュ時に電車の急行運転や、運行回数の増加を行いました。また、16年7月には全国の市内電車で初の連接車となる2600型(定員120名)を新造しました。
昭和16年12月8日には太平洋戦争が始まり、戦時輸送体制をさらに強化しました。17年度には老朽化した単車を改造してボギー車に連結した親子電車の運転を始め、急行電車の時間延長、通過停留所を増やした特急電車や工員優先の㋓電車の運転などを行いました。

市電2600型に乗客が乗降している様子

2600型

特急の㋓電車から降りて軍需工場へ出勤する人々(昭和18年) ⓒ中日新聞社

特急の㋓電車から降りて軍需工場へ出勤する人々(昭和18年) ⓒ中日新聞社

急行電車の通過を知らせる停留場標識

急行電車の通過を知らせる停留場標識

バス事業の縮小と代燃車の登場

日華事変が勃発してから、ガソリンや資材が不足しはじめ、外国車が輸入されなくなったため、市バスの運行系統の縮小と車両の国産化、代燃車の開発が進められました。
昭和13年6月に13系統を休止したのにつづき、16年8月には市バス全系統について市電と並行する部分を廃止しました。また、18年3月からは、市バスで特急運転、急行運転を行いました。一方、車両については、13年にSKS型電気バス、木炭バスが登場しましたが、ガソリン車の使用が16年9月に禁止された後は、ガソリン車にも代燃装置を架装する改造を行い、電気バスと木炭バスだけで営業することになりました。

木炭バス©中日新聞社

木炭バス©中日新聞社

SKS型電気バス

SKS型電気バス

戦災

戦時下で軍需産業が労働力を吸収するため、乗務員を募集しても応募者が少ない一方で、在職中の乗務員が軍隊へ召集されるため、しだいに人手不足となっていきました。
そこで昭和19年に本局勤務の男性職員を車掌業務につかせたほか、学生の車掌乗務を実施し、20年には市役所や県庁の女性職員による応援乗務も行いました。また、19年と20年には女性車掌からバス運転手を養成して運転業務にあたらせました。
また、昭和19年末ごろから、名古屋市は大規模な空襲を何度も受けるようになりました。変電所や軌道、車両も大きな被害を受け、被害箇所を不眠不休で修理しても再び爆撃されるというような状態で、市内交通機関としての機能もままなりませんでした。

空襲を受ける名古屋市北東地区(昭和20年3月21日) ⓒ中日新聞社

空襲を受ける名古屋市北東地区(昭和20年3月21日) ⓒ中日新聞社

焼野原となった広小路付近 ⓒ中日新聞社

焼野原となった広小路付近 ⓒ中日新聞社

COLUMN

無軌条電車(トロリーバス)

無軌条電車(トロリーバス)は、レールを使わず直接路面を走る電車で、架空線から電力を受けて走るバスとも考えられます。昭和18年5月10日、沿線の軍需工場への移動手段を確保するため、東大曽根・桜山町間(6.2km)に、京都市に次ぐ日本で2番目の無軌条電車が開業しました。
戦後になると、戦争中の車両、路面の荒廃など老朽化が目立つようになり、まず大久手・桜山町間が軌条化された路面電車となり、残った区間についても26年1月15日に廃止されました。
無軌条電車は、その性能について、批判を受けましたが、戦中・戦後にわたり7年半の間に、輸送に果たした功績は、大きいものがありました。

開業時の車両

開業時の車両

戦後の復興と発展(1945年 -昭和20年-)

終戦後の状況

昭和20年8月15日に戦争は終わり、電気局は20年10月2日に交通局と名称を変えました。当時、買い出しの大きなリュックサックをかついで乗車する人も多かったため、市電や市バスはとても混雑しました。
昭和22年と23年に、進駐軍から軍用車両のダッジブラザース150両、アンヒビアン12両が払下げされ、これをバスに改装して使用しました。この措置とガソリン配給開始により、バス事業は急速に復興しました。市電も、戦災で運行休止になっていた区間の復旧に努め、兵役に服していた職員が職場に復帰してきました。その後、24年ごろには復旧が一段落しました。
その後、昭和27年10月1日に地方公営企業法が施行され、交通局もこの法律に基づく地方公営企業となりました。

終戦後の名古屋駅前(昭和21年) ⓒ中日新聞社

終戦後の名古屋駅前(昭和21年) ⓒ中日新聞社

混雑する電車 ⓒ中日新聞社

混雑する電車 ⓒ中日新聞社

ダッジブラザース 昭和27年にワンマンカーに改造されたのちの姿

ダッジブラザース 昭和27年にワンマンカーに改造されたのちの姿

昭和20年8月のバス路線図

昭和20年8月のバス路線図

戦後の市電の発展

昭和25年頃にはようやく世相も安定し、増加の一途をたどる交通需要への対応とサービスの向上に努力を続けました。都心の大津町線、広小路線での1分間隔の運転や、市の周辺部への路線の新設にも力を入れました。一方で、29年2月には下之一色線で全国初のワンマン電車の運転を行い、経営改善にも努めました。車両の面では、新しい技術を取り入れた無音電車1800型を製作し、32、33年にはさらに改良を加えた2000型を製作しました。そのほか、自動車交通の増加に対応して、停留場を高台式の安全地帯にしています。
昭和30年度の1日当たり乗車人員は68万2千人と戦後最高を記録するなど、このころが市電の黄金時代でした。

名古屋駅前のラッシュアワー(昭和27年)

名古屋駅前のラッシュアワー(昭和27年)

戦後のバスの発展

昭和23年に民営バスが名古屋駅前に乗り入れを始めたことにより、市バスの市内路線独占が破られました。お客さまの獲得のため、快適なバスを目指して大型ディーゼル車の新車を配置しました。その後も続々と導入してディーゼル車はバス事業の主力の座に着きました。また、ボンネット型がほとんどだった車体は、29年に導入したアンダーフロアエンジンバスや31年のリヤーエンジンバスからは、現在のような箱型のものに変わりました。
運行の面では、26年10月に最初のワンマンバスを導入して経営改善を図ったほか、31年4月には、千種区猪高町など30年に合併した地域に系統を設定し市民の期待に応えました。

トレーラーバス

トレーラーバス

昭和24年に運行を開始したディーゼルバス

昭和24年に運行を開始したディーゼルバス

昭和31年に初めて導入されたリヤーエンジンバス

昭和31年に初めて導入されたリヤーエンジンバス

昭和26年に運航を開始したワンマンバス

昭和26年に運航を開始したワンマンバス

COLUMN

貸切バスと定期観光バス

貸切バス

昭和24年頃には視察や観光のために名古屋市を訪れる人が多くなり、25年8月1日に貸切バス事業を開始しました。事業は好調で、片道22時間を徹夜で走る九州帰省バスや中津川、稲武の野外教育センターへの児童、生徒の送迎などに活躍しました。現在は市バス運行区域内を主とした貸切運行をしています。

最初の貸切用車両「ひがしやま」

最初の貸切用車両「ひがしやま」

小学生を乗せ中津川屋野外教育センターに到着した貸切バス(昭和50年8月)

小学生を乗せ中津川屋野外教育センターに到着した貸切バス(昭和50年8月)

定期観光バス

定期観光バスの経営が各方面から要望されたことから、昭和26年10月3日に事業を開始しました。当初は、貸切バス用車両を利用していましたが、27年に天井の両側をガラス張りにした「あつた」「なみこし」を導入し、毎年夏には夜の観光バスを運転しました。しかしながら、経営は赤字続きであり、37年10月14日に定期観光バス事業を廃止し、新たに設立された名古屋遊覧バス株式会社に引き継がれました。

「あつた」と「なみこし」

「あつた」と「なみこし」

定期観光バスの車内

定期観光バスの車内

地下鉄開業に向けて(1946年 -昭和21年-)

戦後の地下鉄建設計画

名古屋市では、戦災復興事業を進めるにあたり、昭和50年の人口を約200万人と予想した都市計画を立てて、交通網もその一環として整備することとしました。
昭和21年9月に「名古屋市高速度鉄道協議会」が設置され、翌年10月には6路線約55kmの路線網が定められました。その後、この路線網から名古屋・八田間約6 kmを除いた約49kmが「名古屋復興都市計画高速度鉄道路線」として、昭和25年1月に都市計画決定されました。

名古屋市高速度鉄道協議会の定めた路線網

名古屋市高速度鉄道協議会の定めた路線網

私鉄との相互乗入れ計画

地下鉄路線網の計画に際して、名古屋市は私鉄である名鉄、近鉄と相互乗入れについて協議を進め、名鉄線とは名古屋駅、水分橋駅、新川橋駅、大曽根駅で、近鉄線とは八田駅でそれぞれ相互乗入れをすることとし、昭和24年2月に三者間で協定を締結しました。このうち、名古屋駅における名鉄線との接続では、国鉄名古屋駅東端の未利用ホーム(当時の通称零番ホーム)を国鉄から借用し、栄生方面と連絡する計画でした。
ところが、28年に建設資金分担の問題や国鉄のホームを借用できなくなるなど、私鉄との相互乗入れの実施は困難となりました。翌29年6月に三者協定は破棄され、市独自で建設を進めることになりました。

名古屋駅での名鉄との相互乗入れ計画

名古屋駅での名鉄との相互乗入れ計画

着工

「名古屋市高速度鉄道協議会」が決定した路線網のうち、第1号線の名古屋・田代間(7.5km)と、第2号線の市役所裏・金山間(4.8km)については、昭和25年1月31日に免許を得ましたが、資金面からなかなか着工できませんでした。28年にようやく資金のめどがつきましたが、建設費節減のために軌間1,435mm、電圧600Ⅴ、サードレール(第三軌条)方式を採用することとしました。
このうち、名古屋・栄町間を第1期工事区間として早急に建設することとし、29年8月31日に栄のテレビ塔南広場で起工式を行い、地下鉄建設の第1歩を踏み出しました。

地下鉄の開業(1957年 -昭和32年-)

名古屋・栄町間の工事

名古屋・栄町間の工事は、戦災復興事業として確保された道路予定地(現在の錦通)を開削工法で施工したため、用地取得に要する費用と時間を節約できました。また、堀川下の横断では、圧気式潜函工法という特殊な工法を採用し、地上でトンネルとなる箱を組立て、それを順次沈下させながらトンネルを築造していきました。

堀川の潜函工法

堀川の潜函工法

建設中の栄町駅

建設中の栄町駅

地下鉄最初の車両

初めての地下鉄車両の設計に当たっては、安全(Safety) ・迅速(Speed) ・静粛(Silence)の3Sを基本として慎重に研究を重ね、昭和31年11月に試作車1両(後の101号車)を製造しました。
車体は長さ15.6m、幅2.5mのボディーマウント構造、車輪は路面電車で経験を積んだ弾性車輪、色は画家の杉本健吉氏に選定を依頼し、ウィンザーイエローと決定しました。

栄町に運ばれる100型

栄町に運ばれる100型

名古屋・栄町間の開業

昭和32年11月15日、待ちに待った地下鉄が、名古屋・栄町間(2.4km)に開通しました。名古屋駅ホームで発車式を行い、1番ホームでのテープカットのあと、9時48分に、拍手と万歳の嵐の中初電車が栄町へと発車しました。
この日14時からの一般営業には、初乗りを待ちわびていた乗客が押し寄せ、3分間隔2両編成で運転する列車はすべて満員となり、夜遅くまで混雑が続きました。1日の乗車人員は予想をはるかに上回る13万人にのぼり、好調なスタートを切りました。
開業時の車両は、定員110人の100型12両で、2両編成で運転し、名古屋・栄町間を4分で結びました。また、料金は大人15円、小児8円の均一制でした。

発車式

発車式

COLUMN

伊勢湾台風の被害

昭和34年9月26日夜半、伊勢湾台風がこの地方を襲いました。この台風は、名古屋市内で最大瞬間風速45.7m、総降水量1,330mmを記録するという驚異的なもので、強風、豪雨に高潮を伴い、名古屋市だけで1,851名の犠牲者を出しました。
市電は、20時頃から全面的に運行を停止していましたが、翌27日には、ずたずたになった架線、傾いた電柱、土砂や流木に埋まった軌道、浸水した電車、破壊された車庫といった手も付けられない状態でした。9月30日には、車両の70%、走行キロでは90%が回復したものの、全区間の復旧は1年半後の36年4月1日でした。
また、市バスについては、その機動性から浸水した車両は少なかったものの、車体の損傷や車庫の被害は避けられませんでした。それでも、27日には全路線の約70%の運行を確保し、被害のあった地域でも臨時運転やう回運転により市民の移動手段の確保に努め、12月1日には全路線が完全に復旧しました。そのほか、不通になった市電の代行バスとしても活躍しました。
なお、地下鉄は、徹夜作業により、27日の始発から平常どおり運転することができました。

西稲永で立ち往生した市電(役所の臨時出先窓口として重宝された)

西稲永で立ち往生した市電(役所の臨時出先窓口として重宝された)

海のようになってしまった市電の大宮司・西ノ割間

海のようになってしまった市電の大宮司・西ノ割間

車庫の倒壊した港電車運輸事務所

車庫の倒壊した港電車運輸事務所