市電の廃止と地下鉄網の整備(1960年~)

市電からバス、 そして地下鉄へ(1960年 -昭和35年-)

市電の利用者減少

市電の1日当たりの乗車人員は、昭和30年度には戦後最高である68万2千人を記録しました。その後、市電の利用客はバスや地下鉄・マイカーなどに移行するようになります。
それに伴い、1日当たりの乗車人員についても、40年度には50万3千人と、30年度の約4分の3にまで減り、赤字も年々ふくらんでいきました。

昭和41年の納屋橋付近の様子

納屋橋付近(昭和41年)

市電の衰退とバスの台頭

一方、昭和35年度にバスの1日あたりの乗車人員は62万1千人となり、初めて市電を追い越しました。30年代後半のバスは、周辺部の住宅開発や高校・大学の設置、合併による守山区、緑区の誕生などに対応して路線を伸ばし、乗車人員も年々増加、都市交通の主役となっていました。

昭和39年2月、守山区幸心付近で市バス開通を祝う人々

市バス開通を祝う人々(守山区幸心 昭和39年2月)

昭和40年2月、緑区左京山での開通式

開通式(緑区左京山 昭和40年2月)

高度経済成長と車社会

ところが、急激な経済成長により、自動車交通量が増加し、渋滞が激しくなったため、市電やバスの表定速度はしだいに低下し、運行効率が悪化しました。
特に市バスでは、燃料、資材の値上がりや人件費の増加もあり、乗車人員は増えながらも財政状況は悪化し、サービスや輸送力の向上に、思うように取り組めなくなっていました。

中切町付近で渋滞にまきこまれたバス

渋滞にまきこまれたバス(中切町付近)

地下鉄計画路線網の変更と市電の整理

昭和30年7月に運輸大臣の諮問機関である「都市交通審議会」が設置され、その名古屋部会が設けられました。
36年10月には地下鉄5路線約75㎞の路線網が答申され、名古屋市は、これに基づいて都市計画の変更決定を行っています。
さらに、答申のなかで、「昭和60年度までに市電は概ね撤去し終えるべきである」と述べられ、交通局としても市電の整理を進めることになりました。
そして、昭和38年4月に地下鉄工事のために36年5月から休止していた市電の覚王山・東山公園間を正式に廃止しました。40年3月には今池・覚王山間を廃止しましたが、これは経営合理化のために市電を廃止する初めてのケースとなりました。

昭和36年都市交通審議会答申の路線網の図

昭和36年都市交通審議会答申の路線網

昭和36年系統図

系統図(昭和36年)

交通事業の5か年計画

昭和40年3月に交通局は「交通事業の5か年計画」を策定し、市電については、40年度から44年度までの間に計画的に廃止することと、ワンマン化を進めるという内容でした。
また、バスについては、市電と同じくワンマン化の推進、路線の拡大などによる輸送力の増強、地下鉄との連携した接続を骨子としていました。なお、昭和26年から既に一部の系統でワンマン化を実施していましたが、40年度9系統、41年度12系統と着実にワンマン化が進められました。

渋滞にまきこまれた市電の様子

渋滞にまきこまれた市電

ワンマン化された市電の車内

ワンマン化された市電の車内

昭和37年のワンマン・ツーマン兼用車

ワンマン・ツーマン兼用車(昭和37年)

ワンマンバス専用車

ワンマンバス専用車

財政再建計画

昭和42年3月に地方公営企業法の改正を受けて「財政再建計画」を策定しました。この計画は、市電を全廃とするほか、48年度までにバスの60%(後に94%に変更)をワンマン化するというもので、51年4月に全車両がワンマン化されました。

昭和43年9月の通勤・通学であふれる八熊通停留場の様子

通勤・通学であふれる八熊通停留場(昭和43年9月)

昭和43年頃、軒先をかすめるように走っていた下之一色線の荒子停留場

軒先をかすめるように走っていた下之一色線の荒子停留場(昭和43年頃)

昭和45年10月、夜の花電車

夜の花電車(昭和45年10月)

昭和47年、ワンマンバスが増えた栄付近の様子

ワンマンバスが増えた栄付近(昭和47年)

地下鉄1号線の延長(1960年 -昭和35年-)

栄町・池下間の開業

時代は遡り、昭和32年の名古屋・栄町間の開業に続き、第2期工事として栄町・池下間(3.5km)の建設を進めました。地下埋設物が多いことから、当初は高架式で建設する予定でしたが、沿線住民からの強い要望があり、地下式に変更しました。この区間は、千種駅で国鉄中央本線と、今池付近で直径1.1mの上水道本管と交差するため、慎重に工事が進められ、35年6月15日に開通しました。

市電操車場の横で始まった池下駅と車庫の工事の様子

市電操車場の横で始まった池下駅と車庫の工事

千種駅では国鉄中央本線を横断

千種駅では国鉄中央本線を横断、国鉄列車が通過している様子

池下・東山公園間の開通

昭和38年4月1日、池下・東山公園間(2.5km) が開通しました。この区間のうち池下・覚王山間は、住宅の多い丘陵地帯であるため、工事は開削ではなく、地下鉄では初めてシールド工法を採用。湧水の多い難工事区間でした。また、覚王山・東山公園間は、営業していた市電を休止し、道路を全面覆工して工事を進めました。

当時のシールド工法の様子

当時のシールド工法

虎も参列した東山公園駅の発車式

虎も参列した東山公園駅の発車式

地下鉄2号線の開通(1965年 -昭和40年-)

市役所・栄町間の開通

昭和40年10月15日に地下鉄2番目の路線である2号線の市役所・栄町間(1.3km)が開通しました。当初、2号線市役所・金山間の工事では部分開通を予定していませんでしたが、市役所付近の整備が進み、市役所・栄町間の早期開通を望む声が強かったため、一足先に開通しました。
しかしながら、栄町駅には列車が折り返す渡り線がなく、上り線、下り線に2両編成の列車を1本ずつ入れ、それぞれが往復運転するという異例の運転方式を採用しました。軌間や、電気方式、車両の規格などは1号線と同じですが、2号線に導入した1000形車両は、乗降口を両開き戸としたほか、前面に行先標示幕を取付け、より近代的な外観となりました。また、栄町駅に地下鉄で初めてエスカレーターを設けました。

市役所駅で行った発車式の様子

市役所駅で行った発車式

大津橋付近で名鉄瀬戸線を横断する様子

大津橋付近で名鉄瀬戸線を横断

テレビ塔下の工事

この区間の建設では、テレビ塔の塔脚の間を南北にくぐる必要がありました。テレビ塔下の工事は、当時外国にも例がなく、薬液注入による塔脚基礎の補強、アースドリルを使った無振動工法、トンネルの上床板を先に築造する逆巻き工法など地下鉄技術陣の総力を結集して、この難工事に当たりました。

テレビ塔下での工事

テレビ塔下での工事

2号線栄・金山間、1号線東山公園・星ヶ丘間の開通

市役所・栄町間の開通から1年半後の昭和42年3月30日に、2号線栄・金山間(3.0㎞)が、1号線東山公園・星ヶ丘間(1.1㎞)と同時に開通しました。
栄・金山間の工事では、栄では中日ビルやオリエンタル中村(現在の名古屋三越)、矢場町では松坂屋への連絡通路を設けて買物客の利便性の向上を図ったほか、久屋地下駐車場も同時に施工しました。
また、星ヶ丘付近は、住宅、学校の適地として開発が進み、地下鉄の建設が急がれました。さらに東山公園・星ヶ丘間は、広小路線の道路拡幅と並行して工事が進められました。

金山付近で国鉄線・名鉄線を横断する線路の写真

金山付近で国鉄線・名鉄線を横断

久屋地下駐車場と同時施工した栄・矢場町間の工事の様子

久屋地下駐車場と同時施工した栄・矢場町間

金山駅で行った発車式

金山駅で行った発車式

星ヶ丘駅で行った発車式

星ヶ丘駅で行った発車式

地下鉄の開通によるバス路線の再編成

1号線東山公園・星ヶ丘間の開通に伴い、地下鉄星ヶ丘駅の地上にバスターミナルを設置しました。これは、バス系統の起終点を集め、郊外からはバスを利用し、都心部では地下鉄を利用するという構想を描き、バス路線を再編成したものです。
地下鉄駅の上にバスターミナルを設置し、バス路線は地下鉄に接続するように再編成するという考え方は、この後の地下鉄開通の際にも受け継がれています。

昭和42年の星ヶ丘バスターミナル

星ヶ丘バスターミナル(昭和42年)

地下鉄1号線の 東西同時開通(1969年 -昭和44年-)

名古屋・中村公園間、星ヶ丘・藤ヶ丘間の開通

名古屋・中村公園間の建設では、国鉄線、名鉄線との交差があることから、この区間も、慎重に地下での工事が進められました。一方、星ヶ丘・藤ヶ丘間の建設では、星ヶ丘から一社駅の東までは地下線、そこから藤ヶ丘までは名古屋の地下鉄では初めての高架線としました。
昭和44年4月1日、名古屋・中村公園間(3.5km)と星ヶ丘・藤ヶ丘間(4.4km)は同時に開通しました。都心部と市西部・東部の周辺地域とを、市バスなどと比較して約半分の時間で結ぶことができるようになりました。このように、地下鉄は高速・大量輸送可能な都市交通機関として成長していきます。
また、この開通にあわせ、車両留置能力330両の藤ヶ丘工場を開設しました。

藤ヶ丘駅で行った発車式

藤ヶ丘駅で行った発車式

路線の愛称募集

地下鉄の営業キロが20キロを超えたことを記念して、路線の愛称を一般募集し、昭和44年5月1日から1号線は「東山線」、2号線は「名城線」と呼ぶようになりました。なお、その後開通した3号線、6号線については、開通前に愛称募集を行い、それぞれ「鶴舞線」、「桜通線」と定めました。

地下鉄名城線の延長(1971年 -昭和46年-)

金山・名古屋港間の開通

昭和46年3月29日に金山・名古屋港間(6.0km)が開通しました。名古屋港付近が海抜ゼロメートル地帯であり、伊勢湾台風のときに長期浸水した地域であるため、当初は、金山から南の一部分のみを地下式とし、国鉄臨港線に並行した高架式とする計画でした。
しかし、計画路線内に民家が建ち並び、また、新幹線が建設されて高架式は技術的にも困難となったため、路線を市道江川線に変更し、地下式で建設することになりました。このため、駅の出入口には防潮扉を設置し、2階に避難室を設けるなど、浸水対策に十分配慮したつくりとなっています。

開設したころの名港車庫

開設したころの名港車庫

金山駅で行った発車式

金山駅で行った発車式

名古屋港駅の防潮扉を二人の人が閉める様子

名古屋港駅の防潮扉

市役所・大曽根間の開通

この区間の経路は、市役所~土居下~森下~大曽根という、名鉄瀬戸線に並行したものとする予定でした。しかし、瀬戸線との二重投資を避け、市北部の発展に伴う交通需要に対応するため、黒川経由のルートに変更しました。大曽根の六差路や名古屋環状線など、交通量の多い道路の下での工事を乗り越え、昭和46年12月20日に市役所・大曽根間(4.6km)が開通しました。

大曽根付近の工事

大曽根付近の工事

名城公園駅で行った発車式

名城公園駅で行った発車式

金山・新瑞橋間の開通

金山・新瑞橋間(5.7km)は、南東部丘陵地帯の宅地開発が進んだため、地下鉄整備が急がれることとなり、昭和49年3月30日に開通しました。31日には、新瑞橋バスターミナルの開設、大規模なバス路線の再編成、市電を全廃するなど、地下鉄を基幹とした市内の交通体系が確立しました。

新瑞橋駅で行った発車式

新瑞橋駅で行った発車式

市電の廃止(1974年 -昭和49年-)

市電は、昭和42年3月に策定した「財政再建計画」を受けて、計画的に路線を廃止してきました。田園地帯を走り独特の風情を持っていた下之一色線は44年2月、広小路通を走り、創業以来の最も古い路線であった栄町線は46年2月と、市民に親しまれてきた路線は次々に姿を消し、名古屋駅前の路線も47年3月に廃止。
そして、49年3月31日、最後まで残った金山橋・市立大学病院間、矢田町四丁目・昭和町間、大久手・安田車庫前間の3区間で無料開放のサヨナラ運転を行い、この日をもって市電は全廃となりました。

昭和49年、市電との別れを惜しむ少年たちと市電乗務員が握手をする様子

市電との別れを惜しむ少年たち(昭和49年3月31日)

昭和46年1月31日、栄停留場で栄町線のサヨナラ式

栄停留場で栄町線のサヨナラ式(昭和46年1月31日)

昭和49年3月31日、サヨナラ運転当日の金山橋

サヨナラ運転当日の金山橋(昭和49年3月31日)