思い出エピソード

  • 【EPISODE】ちゃりぽ!(10代)

    高校進学してしばらくたった時、ふとしたきっかけでまた市バスに乗るようになりました。
    それまで、ほかの交通機関しか乗ってこなかったけれど、市バスに乗り始めてから、新たな発見がいっぱい出てきました。
    大きな街から、郊外のひっそりとしたところまで走り、更に乗る人も温かい人ばかりで、電車通学の時には感じなかったことが続々と出てきました。
    小さい頃から見てきた車窓が、今でも鮮やかに見えたのは、記憶に残っています。
    小さい頃は、ただ乗るためだけにしか思っていなかった市バスが、今では亡き父の形見のカメラで撮るようになりました笑

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  • 【EPISODE】フナパパ(50代)

    私の実家は市バス深田町(現在の名鉄清水)バス停のすぐ近くにありました。
    昭和40年代の半ば、家族の娯楽は日曜日に栄のデパートに家族で出かけ、屋上の小さな遊園地で遊ぶことと大食堂でご飯に旗の立ったお子様ランチを食べることでした。
    丸栄やオリエンタル中村に出かけ、午後に市バス待ちの行列に並び、3号系統新川中橋行きに乗って帰宅しました。
    日曜日午後の市バスは混んでいて、ほとんど座れませんでしたが、当時は子どもに席を譲ってくれる大人もいて座れることもありました。
    当時は高齢の方も少なく子ども連れの家族もたくさん市バスに乗っていました。
    今は高齢の方が多い市バスですが、名鉄電車はまだ栄まで乗り入れておらず、街に出かける際の交通手段は市バスでした。
    木の板を張った床の市バスを懐かしく思い出します。
    市バスの役割は少し変わってしまいましたが、これからも庶民の足として頑張ってほしいと思っています。
    これからもガンバレ市バス‼

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  • 【EPISODE】フナパパ(50代)

    名古屋まつりの花電車

     私の実家は市電 深田町電停すぐ近くにありました。
    10月の名古屋まつりの際には花電車がやってきていました。
    両親が新聞を見て「今日は花電車が来るぞ」と教えてくれます。
    予定時刻の20分も30分も前から近所の子供たちと一緒に歩道に座り込んで花電車を待ちます。
    清水口の坂の上から音楽が聞こえてくると、近所の家々を回り「花電車来たよー」と触れ回ります。
    坂をゆっくり降りてくる花電車は、真昼のような明るさでロケットやういろう屋さんの赤い提灯などを飾った電飾と音楽で名古屋まつりを盛り上げていました。
    当時は黒川が終点の市電だったので、15分ぐらいたつと西杉町方面から清水口に向かい坂を上って帰っていきます。
    花バスもありましたが、花電車の大きさと明るさは忘れられません。
    その後、花バスもなくなり名古屋まつりは英傑行列だけとなってしまった印象です。
    名古屋まつりを盛り上げてくれていた花電車と花バスを知っている人も少なくなったのが少し寂しく思いますが、今年こそ英傑行列でも見に行きたいと思います。

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  • 【EPISODE】まろ(20代)

     物心がついたころ、私は桜通線の沿線に住んでいた。当時の桜通線は名古屋でもっとも新しい地下鉄であり、清潔感のある駅の内装や最新型の車両はほかの路線にはない自慢の特徴だった。
     音に敏感な子どもだといわれていた私は、おでかけのたびに乗った桜通線の車両の走行音がなによりも心地よい。桜通線を走る6000形とよばれる車両は、走行用のモーターを制御する装置にすこし特徴があり、ほかの路線では聞けない独特の音を発する。鉄道ファンのあいだでもそれは有名で、わざわざ遠方から訪れて聞いたり録音したりするひとも少なくない。そんな「独特の音」を日常的に聞けることも、沿線に住んでいる自分ならではの自慢だった。
     ところが、10才になるころに市内の別の区への転居がきまり、桜通線の沿線から離れることになった。その後も進学や就職にともなう生活の変化がつづき、桜通線に乗る機会はめっきり減ってしまっていた。
     3年前に転勤で東京から名古屋にもどってきたのだが、それまでの20年近いあいだに桜通線の様子もずいぶん変わった。行灯式だった駅の発車案内は電光掲示板になり、接近放送のシンプルなチャイムはにぎやかな音楽になった。野並だった終点は緑区の徳重までのび、ホームには転落防止用のドアや柵が建った。
     最新型だった6000形車両も登場から30年近くたち、古くなった制御装置の取り替えが進んでいた。あの「独特な音」を聞ける車両もすこしずつ減っていき、とうとう残り1本だけになってしまった。その残り1本も近いうちにリニューアルの予定があるそうで、「独特な音」はついに聞けなくなってしまう。時代のながれとはいえ、寂しいものである。
     音こそ変わってしまうものの、6000形車両はこれからも走りつづける。私も幼少期の心を癒してくれた「独特の音」を記憶に留めておき、桜通線に乗るときには懐かしく思いを馳せたい。

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  • 【EPISODE】名古屋人(50代)

    東山線はかれこれ、40年以上利用しています。中学から短大まで通学で。その後は通勤で休み以外はほぼ毎日利用させてもらっています。

    現在の住まいへ引越したのは3年前。名東区なのですが、窓から地上を走る東山線を見ることが出来ます。一社駅から藤が丘間は地上を走っている東山線。引越してすぐのある日の夜中。深夜だと言うのに、マンションの外から人の話し声が聞こえて来ます。酔っぱらい??と思いカーテンを開けてびっくり。目の前の線路に何人かの作業員さん達が線路を歩いていました。小さな車両(点検や整備で使うもの?)も頻繁に往復していました。

    その時に初めて知ったのです。毎日乗っていた東山線は、こうやって日夜、多くの人達のお陰で、安心安全に乗せてもらっていたことを。いつかお礼を伝えたいとずっと思っていました。思い出エピソードにはなりませんが、整備の担当の方々に伝わればと思い書かせて頂きました。東山線は老朽化が進んでいると思います。ご苦労も多いと思いますが、これからもどうぞよろしくお願いします。

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  • 【EPISODE】はやぶさ(10代)

    初めて市バスに乗ったのは3年前、基幹1に乗ったのですが、たまたまそのバスは廃車が決まっていた車両で、後に廃車されたという話を聞いてバスの写真を撮るようになりました。その1年後にも廃車になるバスがあるということで、何回もドニチエコきっぷを買っては、バスを追いかけ続けていました。あまりいい写真は撮れませんでしたが、バスを撮ること、乗ることの楽しさを知り、今でも市バスを追いかけ続けています。これからも安全運行をよろしくお願いします。

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  • 【EPISODE】燃えよドラゴンズ(20代)

    私は、東京の人間だが、名古屋が好きだ。初めて一人旅をしたり、野球を見たり。そんな時、いつも地下鉄に乗って出かけた。
    “人に優しくすること”私は、地下鉄に乗ってそれを学んだ出来事がある。

    2019年の夏、初めて野球を見にナゴヤドームに出かけた。その日はナイターゲームだった。8-4でドラゴンズの見事勝利。熱気と勝利に、ほとぼりが覚めなかったことを記憶している。
    宿は名駅にあって、その帰り道のこと。
    栄で名城線から東山線に乗り換える時、ひとりの外国人の青年に話しかけられた。“名古屋駅はどっち乗れば良いですか”
    私は、高畑行きに乗れば良いと答えたが、彼は不安そうだった。
    “どこまで行くの?”彼は答えた“名鉄の東岡崎”
    私は驚いた。乗り換えアプリと勘をたどった。時刻は23時過ぎ、終電も迫っていた。ひとまず、高畑行きの東山線に乗り込み、彼のことを考えふけっていた。彼は隣の車両に乗り込んだが、どうしても不安だった。
    やがて名駅に到着。すると先ほど別れた、彼が迷っていたので声をかけた。“一緒に名鉄の乗り場に行こう。”彼と共に名鉄名古屋駅の改札まで赴いた。やがて改札に到着して、切符を買うのを手伝いつつ、列車の電光掲示板を確認。最終の始発特急東岡崎行きがある。
    彼にこれに乗れば良いと伝えると、喜んでいた。
    改札で彼を見送った時、手を振り合った。
    今思えば、ホームまで見送れば良かったかと思った反面、あの時、声をかけていなかったら彼はどうなっていたのだろうか。後悔しても仕方ないけど、彼の笑顔が忘れられない。そして人を助けること、勇気を出して話しかけることは大切なのだと、学んだ。

    あれから数年、コロナ渦もあり、名古屋には一回しか赴けなかったけど、名駅で東山線に乗る時、いつもこの事を思い出す。同時に、初めて見た野球に火がついて、熱狂的な中日ドラゴンズファンになった。
    末筆になるが、人を思いやること、何かを好きになるきっかけを、私は名古屋市営地下鉄に乗って見つけられた、学べたんだと思う。これからもご縁があれば、名古屋を好きでいたい。
    この度は、100周年おめでとうございます。拙い思い出で恐縮ですが、綴らせて頂きました。
    ありがとうございました。@写真は初めて見た野球の時のナゴヤドームです。

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  • 【EPISODE】ひーちゃん(60代)

    50年前田舎から名古屋へ来ました。田舎では1日に数本のバスが貴重でバスで移動するにはバスの時刻に合わせるものだと思っていました。50年ほど前はじめて地下鉄を利用して出かけましたが新鮮でした。定期券を持った時も嬉しくて栄で仕事のあと、デパートへ行くのが楽しみでした。お金も無いので見るだけでしたね。切符は駅員さんの鋏さばきもリズミカルでした。
    断捨離中に懐かしい切符が出てきました。当時1区30円黄色の切符でした。今も車は持たず、もっぱらゴールドの敬老パスのお世話になっています。とてもありがたいんです。

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  • 【EPISODE】amaken(10代)

    大学が名古屋市内にある私は、毎日市バスを使って通学しています。雨の日も雪の日も、遅刻して授業に間に合わない日も(泣)、時間通りに大学まで運んでくれる市バスには感謝しかありません。バスに乗り込んだ際に運転士さんが「ありがとうございます〜」と笑顔で言ってくださると、1日の疲れが吹き飛びます!最近では市バス愛が高まって、大学がない日でも写真を撮りに行くことも…(笑)
    今後も末長く利用させていただきたいです、これからもよろしくお願いします!

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  • 【EPISODE】中谷正信

    今から45年前、港区にある私の小学校の学区は、港区木場町(南陽通4丁目停留所)から市バスの終点である潮見町南(乗車時間は30分程度)という広い学区でした。小学校高学年ともなると、親に市バスの回数券をバス停横のパン屋さんで買ってもらい(小児なので1乗車50円だったと思います)週に何回も市バスに乗って友達のいる終点の潮見町南まで行きました。そこは岸壁の前が終点でバス停から1分で海釣りができたのです。何度も通う内にバスの運転士さんにも声をかけてもらうようになり大きなバスを運転する姿がカッコ良く憧れたものです。
    医療系の学校を卒業した私は、一度は病院勤務をしましたが、バスと関わった仕事がしたく名古屋鉄道に転職しました。
    今では縁あって名古屋市交通局の受託事業(市バスの運行管理)で仕事をさせていただいており、とても幸せな毎日を過ごしています。昔の運転士さんを思い出し、市バスをご利用のお客様には、気持ちよくご利用いただけるように笑顔でお客様に寄り添ったサービスを心掛けています。

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  • 【EPISODE】ぢゅんにぃ(40代)

    仕事で地下鉄を使います。
    鶴舞線の車両は、相互直通運転で地上を走っているところを見かけますが、その車両が天候問わず輝いているように見えます。これも市営地下鉄の誇りだと思います。
    市バス・地下鉄も、初めて乗った時に、どこへ向かうか、どこで乗るのかと四苦八苦しました。
    ですが、今やスマホやタブレットによる調べ方もありますが、駅にある地下鉄・バスの地図を見てみると、色々な路線網があり、この地図とスマホやタブレットを共に活用すればすごくわかるような街だと感じます。
    これからもまた利用したい。それが市バス・地下鉄だと。

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  • 【EPISODE】ひーちゃん(60代)

    地下鉄の切符が好きでした。駅員さんが大きな袋に詰めて片付けていたのをたまに見かけました。
    先日、色々入った引き出しから懐かしい定期券が出てきました。日付スタンプがかわいらしく、年齢のところの赤い枠スタンプは確か女性を意味していたと記憶しています。並んで買ったのも懐かしい、50年ほど前通勤で使っていた定期券。
    今は敬老パスを活用していますのでちょっと遊び心でパスケースに入れています。50年前と同じ気持ちで利用しています。同年代には懐かしい!若い人にはへー!と感心され、話題になります。

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  • 【EPISODE】すみれ(60代)

    幼いころ外出する時、最寄の乗り物は市電でした。父も市電で通勤していました。小学生低学年になって引っ越して近くに住んでいた父方の祖母が時々家に泊りがけで遊びに来るようになりました。祖母を送るために久しぶりに市電に乗ってワクワクしたのを覚えています。帰り道にある喫茶店でお茶するのが習慣でした。いつものメニューは母と祖母はコ-ヒ-、私は、ホットケ-キとミルクを注文していましたがとても楽しみな時間でした。その店は今も営業していて市電も走っていないし周辺の雰囲気もずいぶん変わってしまいましたが、懐かしく思い出す糸口にはなってうれしく思いました。ひとつ気になるのは、父は毎朝、市電乗り場まで歩いていましたが自転車があったのにどうして乗らなかったのだろう、という疑問です。歩いて15分近く掛かりそうな距離です。大人になって初めてよく歩いていたなあ、と感心してしまいました。昭和30年代後半のセピア色の風景を今も母と語り合うといつも市電が話題になります。

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  • 【EPISODE】A9まさよし(50代)

    10年くらい前の事です。仕事の用事で名古屋市内に行った時の事、会議を終えて帰路に就いた時に地下鉄に乗車してから忘れ物をした事に気が付いて戻る時にICカードで入場しているから反対ホームの電車に乗って戻るだけではいけないと思い、駅員さんに相談したら入場取り消しのアドバイスを下さり無事に忘れ物をとりに戻って帰る事が出来ました。 あくまで自分の失敗なので、気が付いた駅で一度出て往復した事にしかできないといわれても仕方ないと思っていたところ、意味のない乗車なので乗らなかった事にしてくれた優しさと交通職員としての矜持に敬意を持ちました。
    おそらくすべての職員さんがそうなのだと思いつつも感謝しています。

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  • 【EPISODE】R(20代)


    私が初めて地下鉄に乗ったのは、幼きころにあった何かのイベントの時。相互直通先である名鉄豊田線から乗車しているので、最初のうちは外の景色が良く見えて夢中になっていました。やがて、電車は赤池の手前でトンネルに入り、景色は真っ暗に…。豊田線内もトンネルはありましたがすぐに抜けるので、当時の私は、また暗くなったけどすぐに明るくなると思っていたことでしょう。しかし、真っ暗なまま鶴舞線との境界駅である赤池駅に到着。その後、車内が明るくなることもなく、いつこの電車はトンネルを抜けるのだろうと考えているうちに、目的地に到着。 「降りるよ」という指示があった時は、「まだ暗いのに、降りるの!?」とビックリ。そのままトンネルの中の駅に不安になりながら降り立つのでした。

    これが私が初めて地下鉄に乗った時の思い出。昔は電車が地下を走ることなど想像つかなかったからこんなことを思っていたことでしょう。
    そのイベントの後、乗った電車が地下鉄であることを知り、興味を持ち、本やHPを調べ漁った結果、今では名古屋市営地下鉄の駅名、駅ナンバリング、車両等々を完全に記憶、理解し、相互直通先の名鉄共々一番好きな鉄道事業体となってしまいました。

    最近では、他の地下鉄も見物しに行くことはありますが、やはり私に初めて地下鉄を教えてくれた名古屋市交通局を超えることはないでしょう。
    私が世界で一番愛する地下鉄、名古屋市交通局が今後もニーズに合わせつつ、安全第一に末永く走り続けることを願っています。

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  • 【EPISODE】Higasou(10代)

    2020年、名城線に全面ラッピング車両が登場しました。docomo5Gプライムツインラッピング車です。久しぶりの全面ラッピング車で、ラッピングの情報を知った自分はすぐに撮影に行きました。久しぶりに見た全面ラッピング車は、迫力がありとても興奮しました。ラッピング期間は数ヶ月でしたが、全面ラッピング車を久しぶりに見ることができてとても嬉しかったです。

    現在はフルラッピング車両はありませんが、もしまた登場したら撮りに行きたいと思っています!

  • 【EPISODE】コンチャン(20代)

    ・高校の時に利用した名城線。
    東別院駅と矢場町駅は良く利用していたな。東別院駅は高校の最寄り駅、矢場町駅は部活での鉄道模型を良く買いに行った場所で、今でも、たま~にとなってしまったが行く。朝は金山駅から乗ると毎回人が多くて。辛い日もあったけど今となっては良い思い出。なぜかと言うと通勤ラッシュに慣れさせてくれた。今でも忘れない。
    ・黒川駅
    高校の頃、仲が良くなった友人が以前に住んでいた場所の最寄り駅だった。今友人は埼玉県の所沢市に住んでいて、コロナ禍になってしまって最近は会えてない。LINE電話で毎日かかさずトークはしている。

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  • 【EPISODE】杉本清子(90代)

    市電の八事線で中学校・高校に通っていました。当時、友人の中では‘チン電’と呼んでいました。「あの先輩はここで乗ってくる」とか「あの子はいつも○○しているからあだ名は○○にしよう」など他愛もない話をしていたことを思い出します。
    市電がなくなってからは、市バスによく乗っています。最近はノンステップバスになり、とても乗りやすくなりました。自分で車を運転したり歩くときとは、目線の高さが違って、ワクワクするので、バスの中から景色を眺めるのが好きです。

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  • 【EPISODE】がちょ(40代)

    もう二十数年前になりますが、市バスと地下鉄を乗り継いで四年間大学へ通っていました。地下鉄は東山線の中村公園駅から終点藤が丘駅まで。帰りは始発ということで必ず座ることが出来たので35分間の読書の時間でした。しかし、時には睡魔との闘いの時間を過ごしたことも多々ありました。それでも不思議なことに中村公園駅に着く頃には目が覚めていたのですが、1回だけ乗り過ごして高畑駅まで行ってしまったことがあります。藤が丘駅では点検作業に入る為か、居眠りしている乗客は全員必ず駅員さんに起こしてもらって下車するのですが、高畑駅ではなんと起こしてもらえないのです!
    私が目が覚めた時には、まわりに他の乗客の方がちらほら乗っていて電車が出発するのを待っている状況でしたが、目が覚めたばかりの寝ぼけた脳みその状態では現状把握するまでにかなり時間がかかりました。段々思考回路が働くようになってきて、普通だったら誰も乗っているはずのない始発の電車に、自分が居眠りしたまま車庫から出てきたのだと思いこんだときには恥ずかしくて顔を下に向けて寝たふりをしていました。「顔から火が出る」とはまさにこういう時に使うんだ!と思った瞬間でした。そして中村公園駅に着いた時に、何事も無かったかのように冷静を装って電車を降り、急いで改札へ向かい、その電車が見えなくなった時の安堵感をいまでも覚えています(笑)。

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  • 【EPISODE】杉本清子(90代)

    その1
    昭和40年頃だったか、当時、瑞穂区長さんは毎日公用車で移動や通勤をしていたと思います。
    ある時、私の父と区長さんがお話しすることがありました。父が「公用車ばかり乗っていては、区民がどういう思いで満員の地下鉄やバスに乗っているか分からない。経験した方が良い。乗った方が良い。」と言うと、その区長さんはその後、地下鉄も使うようになりました。
    どんな区長さんだったか、私はあまり覚えていないのですが、父は「あの区長はみんなの気持ちを分かろうとして、えらいなぁ」と褒めていました。

    その2
    父は、地下鉄の黄電(きいでん)の黄色や、名鉄の赤色を選びました。
    地下鉄は地下を走って暗いので、なるべく明るい色が良いといって、菜種色(ウィンザーイエロー)にして、名鉄は周りが畑とか田んぼの中を走るので、赤色がきれいで良いと言っていました。

    そんな父は、桜通線ができるのを楽しみにしていました。できた後は、知多の杉本美術館に通うため、毎日のように地下鉄に乗って、名古屋駅で名鉄に乗り換えていました。帰りは久屋大通で降りて、東急ハンズで画材などの買い物をして帰宅する、それが日課でした。
    私は車の運転も好きなので、「お父さん、送ってあげようか?」と聞くと、「僕には地下鉄がある!」と言っていて、本当に地下鉄や公共の乗り物が好きだったことを思い出します。

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  • 【EPISODE】びんちゃん(50代)

    今から40数年も前になりますが、当時の地下鉄は、今のように桜通線はなく鶴舞線も伏見~八事間が工事中、名城線も環状運転されていませんでした。そのような交通事情もあり地下鉄各線の終着とされる駅はターミナル駅として現在よりも栄えていた記憶があります。そんな中、私の両親は緑区に家を建てて移り住むことになりました。当時、私は小学5年生、妹も小学1年生になったばかりでした。
    緑区は、名古屋16区の中でも面積が広いほうで、特に東端~西端までの距離が約15㎞ほどあり、我が家は名鉄沿線でもなかったため、栄などに行くための交通手段として、最寄り(とはいえ山を越えて天白区まで20分ほど歩いた。)のバス停から新瑞橋バスターミナルまで市バスに乗り、名城線に乗り換えるという方法をとらなければなりませんでした。
    当時の新瑞橋バスターミナルには、現在、市バスの運転手の待機所となっているところに市営交通の案内所があり、市バスの元車掌さんとおぼしき女性スタッフの方々が働いておられ、発車時刻や乗り換えの案内はもちろんのこと、交代でターミナルのバス乗り場に出向き、並んでいる乗客への乗車券の販売なども行っていたと思います。
    当時、北区に住んでいた祖母が、敬老パスを手に緑区までよく来ていましたが、案内所スタッフの方々は天白区や緑区の土地勘がない祖母に親切丁寧に接してくれていたようで、乗るバスを間違えそうになったら声をかけてくれたとかバス乗車口のステップで支えてくれたとか祖母からよく聞いたものです。
    マナカなどハード面が充実している昨今ですが、市営交通100周年を機に、先人の方々のソフト面での心温まる接客を再度思い起こしていただき、今後も市民から益々慕われる公共交通機関として歩んでもらいたいなと思います。

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  • 【EPISODE】ピカチュウ(40代)

    僕は子供のころ乗り物に乗っていろんなところに行くのが好きでした。バス停でバスを待ってると様々な年代の車両が来るのが楽しみでした。中にはエアコンなしで床が板張り車体の色が黄色と緑。シートがロングで赤色、ときには青と白のバスシートが緑色。一度バスの中に忘れ物したとき中川車庫まで取りに行ったとき車庫の中見たらたくさんの年代物のバスから新しいものまでありました。運転台の窓ガラスの下にワンマンカーのマークがついてたり日野マーク、丸八マークがついてました。あとたくさんの運転手さんにも僕の名前と顔おぼえられててうれしかったです。

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  • 【EPISODE】ten(20代)

    初めて鉄道ファンになったきっかけが名古屋市営地下鉄鶴舞線です。そこからいろんな鉄道が好きになりました。鶴舞線には交通局の車両以外にも、名鉄の車両も乗り入れており、西は犬山、上小田井 東は赤池、豊田市まで愛知県の端から端まで走っているのですごいなと思います。また、赤池にはレトロでんしゃ館があり、市電から東山線の初期車両(100形)までいろんな車両が見られます。
    今はコロナ禍で、市バス・地下鉄の乗客も減りましたが、これからも頑張ってほしいです。

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  • 【EPISODE】西のえび(10代)

    幼稚園児の頃、毎週土日のどちらかは父親と一緒に、市バス・地下鉄を乗りに出かけていました。当時はまだ4本ほどしかいなかった東山線のN1000形を目当てに、高畑と藤が丘を毎週のように往復していた記憶があります。私の自宅は中川区にあり、東山線の駅が近いことから出かける度に東山線を利用しており、特に帰りの電車がN1000形だった時はいつも父親と終点の高畑まで一旦行ってから、折り返しの藤が丘行きに乗車し、最寄り駅で降車し、市バスに乗り換えて帰宅していました。

    小学校に入学する少し前の土曜日、この日も父親と出かけ、たまたま帰りの電車がN1000形でした。高畑まで乗車し、到着後は藤が丘行きとして折り返すため、折り返し待ちで電車が停車している際にカメラで撮影しようと考え、先頭車へ向かいました。高畑到着後、物珍しそうにカメラを構えていると「電車好きなの?」と乗務員さんが声をかけてくださりました。私は当時幼稚園児ながら「そうです!」としっかり答えると乗務員さんから『のってくれてありがとう!』の文字とN1000形が描かれているカードを受け取りました。なかなかこのような機会はなく私も父親も非常に感動しました。更には乗務員さんが乗務員室扉を開け、外から見える範囲で乗務員室を見せてもらいました。嬉しさのあまり言葉を失ってしまいましたが、最後は本当にありがとうございましたとお礼をし、藤が丘行きに乗車しました。最寄り駅で降車し、発車を見送ると乗務員さんが手を振ってくださりました。

    あの日貰ったカードはまだ大切に保管してあり、カードを見る度にあの日のことを思い出します。
    素敵な思い出をありがとうございました。乗務員さんには本当に感謝です。

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  • 【EPISODE】夏の日の思い出(30代)

    「あんたたち、明日、これで一日出掛けてきなさい。」
    小学一年生の夏休みだった。
    仕事から帰宅した母は、唐突に3つ上の兄と私にそう告げた。それでバスと地下鉄に乗れるから、と付け加えて母はさっさと夕食の支度を始めてしまった。テーブルには、カラフルな磁気カードが2枚置かれていた。

    名古屋港に行くことになった。行き方はまったくもって、兄に任せてしまった。
    朝からうだるような暑い日だった。
    大曽根駅からバスに乗った。地下鉄にも乗った。
    しばらくして知らない駅で降りた。名古屋港に着いたのかと思ったら、違った。

    もう帰ろう、と兄が言った。
    名古屋港に行かずに帰るなんて!と反対したものの、始めて降りた駅と見たことのない街並みに、すっかり怖くなってしまった。
    帰れなくなったら、どうしよう。
    兄と、知らない女の人に栄までの行き方を訊いた。二人目の女の人が、次に来るバスに乗れば栄まで行けると教えてくれた。
    終点で降りると、バス停からテレビ塔が見えた。ホッとして、二人で我慢していたトイレに駆け込んだ。 家に着いたら、どっと疲れて眠ってしまった。

    当時の話を兄とすると、あの時のお前は本当に能天気で使い物にならなかったと、必ず言われる。

    能天気をあの日に置き忘れたかのように、大人になるにつれて、念入りにルートを調べてから出掛けるようになった。ましてや手元の画面ひとつで簡単に時刻表も運行状況もわかる世の中だ。
    今は毎日、地下鉄で職場に向かう。職場の窓からは、行き交う市バスが見える。地下鉄や市バスに乗るのは日常になった。
    だけれども地下鉄や市バスに揺られていると、ふとした瞬間に一日乗車券を握りしめたあの夏の日を思い出す。車窓から見える景色に心が踊ったあの頃にまた出会えるように、市バスと地下鉄が名古屋の街を走り続けてくれたらと、思っている。これからもずっと、ずっと。

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  • 【EPISODE】長尾 義雄(90代)

    その1
     名古屋市の火葬場は八事霊園の中に有ったので、各家庭では葬儀が終わると、棺を運ぶ専用の市電を使っていました。
     従来の市電は、市電の前後に扉が有りましたが、この市電は車両の中央に両開きの扉があって、棺の積み降ろしに便利になっていました。
    ※当時の尾張電気軌道(名称変更後、新三河鉄道)の事業でした。

    その2
     私は岐阜県の出身ですから、親戚も友人もたくさん有ったのでよく出かけました。
     当時名古屋市西区押切町から岐阜行の名鉄電車が走っていました。たまたま西区に住んでいましたから、よく浄心駅から、押切駅まで市電を利用していました。
     面白かったのは、当時の新聞等が「座れる電車」として報道されていた事です。そう言えば、従来の市電のお客さんは全員立っていましたが、新しい座席が取り付けられ、大変好評だったことを覚えております。
    勿論、好奇心旺盛な私も楽な市電に乗りました。

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  • 【EPISODE】なごやネコnana(50代)

    市電の思い出
    小学校の頃、同級生と自転車で笠寺西門まで行き、そこから市電に乗ると金山まで一本で行けました。名古屋にできたばかりのミ○タードーナツで、新しいものや珍しい色とりどりの甘〜いドーナッツを買いました。友達と今も変わらない定番のココナッツやチョコレートのドーナツなど色々なドーナッツを買いました。
    市電で子供だけで笠寺西門から金山まで1本で行けたのが、子供心に感動しました。
    子ども料金ということもあって、料金は、たしか15円か25円だったので、その値段にも感動でした!
    市電で高辻に同じくドーナツ屋さんができたので高辻にも行きました。
    市電は何となく可愛らしく、ゆったりのんびり走って子どもだけでも安心して乗れたし、人に優しい良い乗り物でした。こんな良い乗り物が名古屋にあるんだ!と子ども心に思いました。
    ある日、市電が廃止されたと知って、結構ショックでした。

    今はもう懐かしい市電に代わって地下鉄が、名古屋をぐるぐる快適に走ってますね!
    地下鉄と市バスには何時もお世話になっております。ありがとうございます。
    写真は新瑞橋バスターミナルで撮った「満月と市バス」の写真です。

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  • 【EPISODE】大谷(30代)

    通勤で毎日市バスを利用していた頃、いつも私と同じ時間、同じ路線のバスに乗る女性がいました。
    名前も年齢も知らない、まったくの他人ですが、長年同じバスを利用していたため、顔ははっきりと覚えていました。
    その女性と、ばったり旅行先の京都で会ったことがあります。
    きっとその女性も、私の顔を覚えていたのでしょう。
    お互い顔を見合わせ、目を丸くして、最後に軽く会釈をしてすれ違いました。
    その後、市バスで一緒になると、挨拶だけ交わすようになりました。
    市バスを利用する中で、不思議なつながりを感じた出来事です。

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  • 【EPISODE】ymama(30代)

    3才の息子と一緒に、よく地下鉄に乗車します。
    息子は地下鉄が大好きで、地下鉄を降りてもホームを離れず、動く地下鉄をずーっと眺めています。
    ある時、地下鉄に向かってバイバイをしていたところ、なんと運転士さんが手を振りかえしてくれました!息子は憧れの運転士さんのリアクションに大喜び!将来の夢は地下鉄の運転士とのことです(笑)

    運転士さん、お忙しい中ありがとうございました。
    今後とも楽しく乗車させていただきます。

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  • 【EPISODE】JNN(30代)

    名古屋市バスと言えば、1990年の9月に起きたかなり有名なエピソードでしょう。
    K運転手さんですね。
    メディアでも報じられ、本当に心に残ってます。
    路線を外れてまで人助けをした方はいないと思います。
    ぜひこの話を100周年のエピソードとして取り上げて下さい。

    思い悩む1人の女性が歩道橋から転落し一刻を争う事態の中、路線バスが無断で路線を外れるという、全国的にもあり得ないルール違反をしながら女性を助けた運転手。

    いろいろな乗客からクレームもあり、市バスの問題児とされていましたが、市バスのヒーローとなりました。

    また、Kさんは直接、女性の命を救ったわけですが、それだけではありませんでした。バスで運ぶ途中、女性に励ましの言葉をかけていたそうです。

    この優しい言葉により、女性は、命だけでなく、心まで救われたと語ったそうです。

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  • 【EPISODE】あっくん(20代)

    思い出は2つあります
    1:僕が小学生の頃、東山線に乗るときはフルラッピング車が来るかどうかワクワクしながら待ってました。特に東海テレビのわんだほと、N1000形がやってた名古屋開府400年記念の真っ黄色をまとったラッピングが好きでした!

    2:成人になってカメラを手にして、思い入れのある東山線の風景を撮影し始めると、童心に帰ったかのようにファインダーを覗いていました。好きな時期は12月あたりの名古屋に雪が降ると東山線もそれに合わせて雪化粧をするところです。

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  • 【EPISODE】ヤマダ(50代)

    名古屋市営バスとの出会いは49年前です。今は市バス栄18号栄から妙見町まで走っていますが、旧50号系統名古屋駅発妙見町を利用して名大病院(病院正門前)への通院に利用していました。地下鉄鶴舞線ができてからは鶴舞線で。
    今でも名古屋市営バス・地下鉄に乗って名古屋市内を回っています。これからも名古屋市営バス・地下鉄に乗って名古屋市内巡りをしたいなぁと思っています。市民のために市バス地下鉄には安全快適な運行をしてもらいたいと思います。これからもよろしく!

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  • 【EPISODE】りー(20代)

    高校生になってから3年間、土日以外休まないで毎日通学で利用していました!

    地下鉄と市バスに乗って色んな観光地に行ったりしました!
    特に、名古屋港と東山動植物園に行ったりすることが多いです!
    名城線を1周乗ったり、ほかの路線で起点から終点までを往復したりもしていました!

    特別列車でクリスマストレインは毎年楽しみで、乗れるとものすごく嬉しくてテンション上がります!
    それを目当てに毎回乗りに行ったりもしていました!

    毎回グッズが出るたびに購入させていただいて、飾ったり実際に使ったりもしています!

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  • 【EPISODE】Rila(50代)

    東山動物園など家族とのお出かけ、受験、通学、就活そして通勤。私の人生にはいつでも市バス・地下鉄が身近にありました。
    いつかこの仕事を離れても、市バス・地下鉄はずっと私にとって大切なものとなっていることでしょう。
    これからも、お客様の日常を、名古屋の街での楽しみを、子どもたちの夢を支える交通局であり続けるために、私は今日も市バス・地下鉄と一緒に走ります。

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  • 【EPISODE】地下街施設担当(30代)

    私は地下鉄駅に併設された地下街の管理運営会社において、施設の維持管理を担当しています。
    1957年の市営地下鉄の開業と同時に地下街も開業しました。以来65年間、地下街は、地下鉄の延伸に合わせた新規開業やリニューアルなどを通じて、駅の賑わいづくりに寄与し、地下鉄と共に発展してきました。
    地下街に携わる者として、今後も名古屋駅地区や栄地区で進められているまちづくりへの対応など、未来を見据えた諸課題に取り組み、地下鉄駅をご利用のお客様が足を運びたくなるような、魅力ある地下街を創っていきたいと思います。

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  • 【EPISODE】BAN(40代)

    小学生のころ、緑区の自宅から中区の祖父母宅に行くために一人で伏見まで東山線に乗りました。中学生のころ、御器所の塾に行くために鶴舞線に乗りました。高校生のころ、今池〜野並間が開通し桜山まで桜通線で通学しました。大学で名古屋を離れましたが、就職後、桜通線で通勤し、子供たちと名城線で野球、スポーツ観戦に行っています。バスにも毎日乗っています。
    初めて乗ってからもうすぐ40年、これからもよろしくお願いします。

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  • 【EPISODE】名古屋の田舎侍(10代)

    今は亡き母は、私が幼い頃市バス・地下鉄で私を連れてよく市内の旅に連れて行ってくれていました。その頃登場したドニチエコきっぷを毎週末買ってそこら中に行った記憶があります。
    母が亡くなり、一時期は市営交通に全く興味が無くなっていましたがある時を境に突然火が付き、今では毎日市バスを撮影するほどになってしまいました…(笑)
    あの頃の思い出の品はないかな…などと荷物を探しているとあの頃のドニチエコきっぷが2枚出てきたのです。2008年1月~2009年3月ごろまでの1年3ヶ月間のみ発行されていた少し珍しい(?)もので未使用でした。
    2019年の年末、市営地下鉄では終夜運転が行われることをふと思い出し思い付きで撮影しに行くことにしました。その日を以て600円のドニチエコきっぷが使用不可になるのも知っていたので一つに「2019年12月31日」を印字することにしました。
    ということで梅森荘23:14発の2019年最後の幹星丘1系統のバスの料金箱にドニチエコきっぷを投入。すると本来使えないはずの「2020年1月1日」の印字がされて出てきました。これには私もびっくりしてしまい間違っているんじゃないかと思いましたが、しっかり正常に通過することができました。
    このきっぷのおかげで深夜3時の地下鉄を味わうことができたり、私の地元である猪高営業所にやってきたレトロカラーバス初めての運用に乗車することができました。色々なところを旅したあの頃の記憶が蘇りとても思い出に残る正月となりました。
    今でもそのきっぷは大切に保管してあります。母との大切な思い出ですし、おそらく世界で一枚だけの平成20年頃のデザインに2020年の印字のきっぷで他の市営交通ファンに見せると羨ましがられたりします(笑)
    もし自分に子供ができたら沢山バス、地下鉄で旅をさせて新たな世界を見つけさせてあげたいです。

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  • 【EPISODE】satofamily503(10代)

    毎日通学で利用している市バス。高校に入学して少し経った頃、いつものようにターミナルにバスが着きドアが開くと「おはようございます」。なんと運転士さんがお客さん1人1人に挨拶をしているのです。自分も挨拶をすると丁寧に挨拶を返してくれました。バスが動きだしてからも丁寧なアナウンスは続きます。さて、高校の最寄りのバス停が近づいてきました。するとアナウンスで、「今日も元気にいってらっしゃい」。思わず笑顔になりました。バスでこんなにほっこりした気持ちになったのは初めてでした。それからこの運転士さんのバスに当たると、内心とても嬉しかったものです。
    自分は今高校3年生。卒業するとこの運転士さんには二度と会うことができなくなってしまうかもしれません。3年間いつも丁寧に挨拶をしてくれた運転士さんには感謝の気持ちで一杯です。

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※エピソード内容は、個人の記憶や印象によるもので、事実と異なる場合があります。